ふと考えたことを、そのまま文にしてみました。
土地。
土地には値段がついている。
その土地には、その値段の価値がある、ということなのだろうか?
いや、違う。
あくまでも、その値段とは、
「その値段を払っても、買ってくれる人がいるだろう」
という思惑のもとに提示された値段なのである。
そして、買う人が現れれば、取引が成立する。
それだけのことなのだ。
土地はただの土地であり、それ以上でもそれ以下でもない。
さて、金(ゴールド)はどうか。
人間界では、価値があると言われている。
価値の理由は、希少性と言われている。
埋蔵量が限られているから、という理屈である。
ここで、(人間にも希少性はあるのでは?)と思考が飛んだ。
わたしは世界に1人しかいないし、あなたも世界に1人しかいない。
確実に希少である。
では、わたしやあなたに、希少性ゆえの価値は認められるだろうか。
すなわち、命そのものに価値があるのかということである。
これは、ある、とも言えそうだし、ない、とも言えそうである。
人は、状況によっては代替可能だからだ。
…いや、なんだかこの話には違和感がある。
そうだ、前半の土地や金(ゴールド)は、通貨で買う話であったのに対して、いまの話は、人と通貨の関係の話ではなかった。
次元の違う話であった。
人を買う場面を想定する必要がある。
こういうと、人身売買みたいな感じに聞こえてくるが、ここで考えるべきは、就職であろう。
会社に入社する見返りに通貨をもらう。
一種の商取引である。
通常は、「労働者の時間」が会社に買われている、と理解することができる。
ここでは、「労働者に値段がつけられた」という事実が存在しているように見える。
しかし、よくよく考えると、就職の場合は、大半のケースでは、値段を提示しているのは会社側である。
モノの市場であれば、オークションなどを除いて、売る側が値段をつけるのに、労働市場では、買う側が値段をつけている。
なんだか、取引のようで取引ではないように思えてくる。
なぜ労働者は自分から賃金を提示できないのか?(提示する文化にならなかったのか?)
まぁ、力関係が会社側のほうが強いという事実があるからだろうが。
しかし、もしも現在、労働市場に、そのような文化が存在していると仮定すると、想像するのは面白いとは思わないだろうか。
あなたは、あなた自身に、いくらの値段をつけるだろう。