事件名
フェノチアジン誘導体事件(最高裁昭和47年12月14日第1小法廷判決)
論点
特許請求の範囲に誤記があるときに、その誤記の訂正をすると、特許請求の範囲を実質的に拡張するものとなる場合、その訂正が認められるか?
事実関係
・特許権利者は、つぎの式を、特許請求の範囲に記載していたました。
HOーAーN-R1
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R2
※Hは「水素」、Oは「酸素」、Nは「窒素」を表し、R1やR2は、特定の化学式であることを表します。
・特許権者は、明細書に、Aは、分岐を有するアルキレン基であるか、分岐を有さないアルキレン基であるという内容を記載していました。
・特許権者は、訂正審判を請求し、請求項の文言を、
「Aは分岐を有するアルキレン基」から、「Aは分岐を有することあるアルキレン基」
に変更する訂正を行おうとしました。
・しかし、特許庁は、訂正審判の請求は成り立たないとする審決をしました。
・特許権者が出訴しました。
・東京高裁は、特許権者の訴えを棄却しました。
(この訂正は、「Aは分岐を有さないアルキレン基」という技術的事項を付加するものである、などと理由を述べました。)
・特許権者が上告しました。
本判決について
・最高裁は、特許権者の上告を棄却しました。
・以下、判旨です。
「126条の解釈問題における「特許請求の範囲の減縮を目的とする訂正」と、「語記の訂正」の関係は、一方に属するものは他方に属しないというように、截然と相互に無関係に区分されうるものではなく、特許請求の範囲を実質的に拡張または変更するものでないかぎり、これを形式的に拡張または変更することも許されるという意味での、相関関係にあることが明らかである。
そして、特許請求の範囲の減縮を目的とする場合においても、法は、これをつねに訂正可能とするのではなく、「実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更する ものであつてはならない」という制限のもとにおいてのみその訂正を許容する。
したがつて、同条一項一号の規定を根拠として、特許権の効力範囲の変動が齎される場合であつてもつねに訂正が許されるべきである、とする論旨には理由はな い。
法は、特許出願に際し願書に添附すべき明細書の「特許請求の範囲には、発明の詳細な説明に記載した発明の構成に欠くことができない事項のみを記載しなければならない」(旧36条5項)ものとし、
また、「特許発明の技術的範囲は、願書に添附した明細書の特許請求の範囲の記載に基いて定めなければならない」(70条)ものとするのであつて、特許請求 の範囲の項の占める重要性は、とうてい発明の詳細な説明または図面等と同一に論ずることはできない。
すなわち、特許請求の範囲は、本来明細書において、対世的な絶対権たる特許権の効力範囲を明確にするものであるからこそ、前記のように、特許発明の技 術的範囲を確定するための基準とされるのであつて、法126条2項にいう「実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更するもの」であるか否かの判断は、もと より、特許請求の範囲の項の記載を基準としてなされるべく、所論のように、明細書全体の記載を基準としてなされるべきものとする見解は、とうてい採用し難 い。
また、発明の基本的思想の同一性が失われる場合に、これが特許請求の範囲の実質上の変更にあたるとして訂正の許されえないことは勿論であるが、同条2項(現行法では4項)に いう実質上の拡張または変更にあたる場合を、ひとりこれにとどまるものということはできないのである。
おもうに、訂正の審判が確定したときは、訂正の効果は出願の当初に遡つて生じ(法128条)、しかも、訂正された明細書または図面に基づく特許権の効力 は、当業者その他不特定多数の一般第三者に及ぶものであるから、訂正の許否の判断はとくに慎重でなければならないのが当然である。
原審の確定事実に照らして本件を観るのに、上告人が訂正を求める「甲は分枝を有するアルキレン基」との記載は、特許請求の範囲の項中の本件特許発明の構成 に欠くことができない事項の一に属するものであつて、これが「甲は分枝を有することあるアルキレン基」の誤記であることは当事者間において争いのないとこ ろであるとはいえ、
本件における特許請求の範囲の項に示された式(化学式は末尾添付)中の「甲は分枝を有するアルキレン基」とする記載は、それ自体きわめて明瞭で、明 細書中の他の項の記載等を参酌しなければ理解しえない性質のものではなく、また、それが誤記であるにもかかわらず、「甲は分枝を有するアルキレン基」とい う記載のままでも発明所期の目的効果が失われるわけではなく、当業者であれば何びともその誤記であることに気付いて、「甲は分枝を有することあるアルキレ ン基」の趣旨に理解するのが当然であるとはいえないというのである。
これによると、前記の「甲は分枝を有するアルキレン基」との記載は、上告人の立場からすれば誤記であることが明かであるとしても、一般第三者との関係から すれば、とうていこれを同一に論ずることができず、けつきよく、本件特許発明の詳細な説明の項中にその趣旨を表示された「甲は分枝を有するアルキレン基」 と「甲は分枝を有しないアルキレン基」との両者のうち、前者のみを記載したのが本件特許請求の範囲にほかならないのである。
以上説示するところによれば、本件の場合、特許請求の範囲の「甲は分枝を有するアルキレン基」との記載を「甲は分枝を有することあるアルキレン基」と訂正することは、形式上特許請求の範囲を拡張するものであることは勿論、本件明細書中に記載された特許請求の範 囲の表示を信頼する一般第三者の利益を害することになるものであつて、実質上特許請求の範囲を拡張 するものというべく、法126条2項の許容しないところといわなければならない。
したがつて、これと結論を同じくする原判決は相当であつて、諭旨はすべて理由がない。
解説
この判決で最高裁は、誤記の訂正を目的とする訂正であっても、権利範囲を広げる訂正はダメだ、という法的見解を示しました。
ちなみに、126条4項には「第一項の明細書、特許請求の範囲又は図面の訂正は、実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更するものであつてはならない。 」とあるのですが、この4項では、1項の訂正の目的との関係はなんら書かれていませんので、本判決は、結果として、126条4項を、文言に忠実に従って適用したということになります。
補足
昭和41年(行ツ)46号、最高裁判所昭和47年12月14日第一小法廷判決も、同じような事件でした。 この事件では、最高裁は、請求項にあった文言 「3乃至5F」を「3乃至5℃」に変えるのは、権利範囲を変更するものにあたるのでダメだといいました。「華氏」を「摂氏」に変更するのは、誤記であったとしても、ダメだといったのです。
豆知識
訂正審判は、青本によれば、「無効審判への対抗手段」として存在しています。
いままでは、どのように訂正審判が請求されていたか説明してみます。
H16改正前までは、特許庁に無効審判事件が継続している間は訂正審判が請求できませんでした。そこで、つぎのような流れになっていました。
1.無効にすべき旨の審決がなされる。
2.特許権者は、特許の遡及消滅を防ぐために、無効審判の審決取消訴訟を提起する。
3.その後、特許権者は訂正審判を請求し、一方で、無効審判の審決取消訴訟の手続きの中止を求める(168条)
H16改正後は、無効審判の審決が確定するまで原則として訂正審判が請求できなくなりました。そこで、つぎのような流れになりました。
1.無効にすべき旨の審決がなされる
2.特許権者は、無効審判の審決取消訴訟を提起する
3.特許権者は、審決取消訴訟を提起してから90日以内に訂正審判を請求し、一方で、無効審判の審決取消訴訟の手続きの中止を求める(168条)。
H24年改正後は、126条2項が改正されたことにより、審決取消訴訟を提起してから90日以内に訂正審判を請求する制度が廃止されましたので、もしも訂正審判を請求するとすれば、つぎのような流れになります。
1.無効にすべき旨の審決がなされる。
2.特許権者が、無効審判の審決取消訴訟を提起し、無効審決を取り消す判決が確定する。
3. 特許権者が、訂正審判を請求する。