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多様性という言葉の独り歩きと人権教育

近年はリアルでもネットでも「多様性」という言葉がよく登場しますね。

この言葉が使われるのは、生物・環境についての話の中だったり、人間についての話しの中だったりします。

主には後者(人間)の方でしょう。

いろいろな人がいるのを認め、互いに尊重し合おうという主張とともに、この「多様性」という言葉が登場しますね。

この多様性という言葉なのですが、最近は、使いすぎなんじゃないかと思っています。

曖昧な感じの言葉なのに、たくさん使うのは、意味あるのかな?どうなんだろうな?と思うわけです。

 

結果として、独り歩きしている印象です。

 

多様性という言葉が出てきた背景は、社会活動家が関係しているかもしれませんが、中心にはおそらく、

特定のマイノリティへの差別をやめましょう

ということがあったと思います。

 

※もしも、特定のマイノリティへの差別が存在しない世の中であったなら、多様性という言葉がここまで登場するような変化は無かったでしょう

 

ここで思うのは、拡散周知すべきは、抽象度の高い「多様性」という言葉ではなくて、シンプルに、

マイノリティへの差別をやめましょう

というメッセージだと思うんですよね。

端的で分かりやすく、訴求力があります。

 

まぁ、差別という言葉を持ち出すと、暗い感じになってしまうということはありますが。

 

つまりは、多様性という言葉を使うことで、人々の意識が個別の差別問題にフォーカスされないことが危惧されるということですね。

人権教育

ちなみに、ある日に、図書館に出かけたのですが、そこで人権に関する本を見かけて、読んでみて思ったことがありました。

それは、マイノリティが抑圧されている現状に鑑み『多様性が大事だ』というのは理解できるが、それによって多様性が増すとか、多様性が維持されるとかは考えがたいことと、

先に来るべきは人権の尊重(人権教育)であって、多様性ではないんじゃないだろうか?ということでした。

人権を尊重できれば、多様性は結果としてついてくる気がします。

多様性が大事、多様性が大事、と社会で言われているわけですが、メッセージの転換が必要だと思われたのですね。

人権のほうが、多様性よりも、上の次元にある気がするんですよね。

 

他者の人権を重んじない人が多様性を軽んじることはないでしょうけれども、多様性を重んじるだけの人は、他者の人権を軽んじることがありそうだなぁと思ったのです。

人権教育の絵本

ところで、上で述べた人権に関する本なのですが、図書館でかりた本で、とても良かった本でした。

それは『子どもの権利ってなあに?』というタイトルの本です。

子どもにも分かりやすいイラストとメッセージで、親子一緒に、子どもの人権について考えることができます。

 

絵本の中の最後の方の、

「いつになったら、世界のすべての子どもの権利がだいじにされるようになるのかな。あした?あさって?20年後?」

というフレーズには、考えさせられるものがあります。

 

なお、子どもの権利は、「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」に定められています。

この条約は、子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められています。

18歳未満の児童(子ども)を権利をもつ主体と位置づけ、おとなと同様ひとりの人間としての人権を認めるとともに、成長の過程で特別な保護や配慮が必要な子どもならではの権利も定めています。

前文と本文54条からなり、子どもの生存、発達、保護、参加という包括的な権利を実現・確保するために必要となる具体的な事項を規定しています。

1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効しました。

日本は1994年に批准しています。