何年か前に、北海道に旅行に行ったのですが、そのときに行ったメロンハウスから、毎年、メロンを購入しています。
出荷元は、とみたメロンハウス。
買っているのは、贈答用ではなく、ハネメロンと呼ばれる、規格外のメロン。
赤肉メロンが三つで4320円でした(送料込み)。
味も美味しいので、これは、かなりお得です。
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味も美味しいので、これは、かなりお得です。
先日、購入した知恵の輪なんですけれども、さっそく届いたのでやってみました。
レベル的にはおそらく、下の上〜中の下といったところなのですが、やってみると、なかなか楽しめました。
はじめはテキトーに動かすわけですが、単に動かすだけでは外せないと分かり、
わたしは、次第に、どうすれば外せるのかを理論的に考えるようになりました。
闇雲に動かして外れても、それは偶然の産物でしかないため、それを是とすることができない(決して喜べない)という私のパーソナリティがそうさせたのです。
つまり、
⑴こうすればよいのではないか、と考える
⑵やってみる
⑶うまくいかなければ、別の仮説を立てる
これを繰り返すわけですね。
たとえば、これ。
どうやって、リングを外せると思いますか?
これは、一見むずかしそうですが、理屈で考え、ひらめくと、簡単に解けるのです。
理屈とは、「リングの直結より短い場所は通る」というものです。
そうすると、「リングが通りうる場所は、そのルートだろう」、という推論にたどり着きます。
もちろん、それが正解となります。
ご検討ください。
日本だけ、諸外国に比べて、給料が上がっていないという話があります。
なぜこんなことが起きるのかというと、それはやはり日本の国土の狭さと、人口密度と、資本主義との掛け合わせによるものなのかなと思われるわけです。
わたしの住んでいる場所は、そこそこ都市なのですが、近年、これまで無利用だった土地に、商業施設がつぎつぎと建設されています。
さまざまなお店が新規オープンしているというわけです。
そんな中、目立つのは、コンビニの近くに別のコンビニができるとか、ドラッグストアの近くに別のドラッグストアができるとか、似た店舗/似たような店舗が増えていることです。
経済のパイは限られているのに、それを奪い合おうとする参加者が増えていくんですよね。
お互いに売り上げを減らし合う、俗にいう「削り合い」なわけです。
おまけに、そのような競争環境では、商品やサービスの値段を決めるときに、どうしても、競争相手の影響を受けてしまい、大きく値上げをすることは難しくなります。
そもそも日本はデフレを放置したために消費者が安い物価に慣れてしまい企業側が値上げができないという事情もあるかもしれません。
日本全国で、こんなことが起きているんでしょうか。
このような削り合いを避けるには、ほかには真似できないような付加価値の高い商品やサービスを生み出すくらいしか思いつきませんが、
現状、そんな事をできる人は多くはなく、
やはり負のループは解消しないのだろうなと思われるのですね。
最近、思うのですが、人間にとっての幸せとはたくさんの定義がある中で、ひとつの正解の形かなというものに、
「思索に耽る(ふける)こと」
があると思われます。
たとえば、
考えているうちに、あっという間に時間が過ぎちゃった・・・
みたいなときですね。
これは、生活が困窮していることを「不幸」としたとしたら、そのような状況下では、思索に耽る余裕もなくなってしまうので、これは一定の妥当性があるような気がします。
・・・とくに最近は、スマホでできるパズルゲーム(アプリ)が流行っていたりするわけですが、客観的には、そんなパズルゲームにのめり込んでいる人たちは、世界的に見れば幸せな人たちなのでしょう。
ゲーム関連でいうところのフロー理論みたいな感じでしょう。
なお、知恵の輪とは、簡単すぎても難しすぎてもダメという、レベルデザインの適切さを問われる案件かもしれません。
さて、私はというと、月一くらいで行く本屋さんにラインナップされている知恵の輪を見かけては、〈買おうか悩み、結局、買わない〉、と言うことを繰り返してきたのですが、
この度、勢いで、Amazonで知恵の輪をポチってみました。
もしやってみて楽しかったら、知恵の輪をまた買い足そうかなぁと思っています。
あだち充氏の漫画を、無料で読む方法は主に二つあります。
ひとつは、ネット(サンデーうぇぶり)で読む方法です。
そのうち、私の読んだものは以下ですが、いずれも面白かったです。
もしよければご参照ください。
あだち充さんの漫画は、図書館に多く所蔵されています。
図書館で借りる、あるいは図書館に出かけて読むことで、費用を無料にしようという作戦です。
全国の主要な図書館にはラインナップされています。
皆さんも,お住まいの地域の図書館の蔵書を検索してみてください。
タッチ,H2,クロスゲーム,ラフ,ナイン,みゆき,虹色とうがらし,スローステップ,陽あたり良好!,MIX等を無料で読めます。
漏出性胸水は、血管内の圧が高まり、胸水がしみ出してくるイメージ。
心不全や、肝硬変やネフローゼ症候群などによる低アルブミン血症などが原因になり得ます。
一方、滲出性胸水は、胸膜の病変が、胸水を産生するイメージ。
一般細菌や抗酸菌による感染性の胸膜炎、がん性胸膜炎など。
Mycobacterium abscessusは、ゲノム解析により、三つの亜種に分類されています。
Mycobacterium abscessusと、Mycobacterium bolletiiと、Mycobacterium massilienseです。
これら三つの亜種を総じて、Mycobacterium abscessus complexと呼びます。
遺伝子検査による亜種の特定が重要な理由は、Mycobacterium abscessusの治療成功率が低いからです。
それは、Mycobacterium abscessusが、マクロライド耐性遺伝子(erm41)を発言しやすいからと言われています。
Mycobacterium abscessusは、マクロライド、アミノグリコシド、イミペネム、ニューキノロンなどを組み合わせて治療されます。
streptococcus dysagalactiae subsp. equisimilis という連鎖球菌は、SDSEと呼ばれます。
血液寒天培地でベータ溶血を示し、ランスフィールド抗原はCまたはGに属します。
皮膚軟部組織感染症や、敗血症、化膿性関節炎、間接性心内膜炎、肺炎など様々な病態が生じます。
遺伝子解析などからSDSEは、ストレプトコッカスピオゲネスS.pyogenesの持っている多くの病原性因子を持っていることが明らかになっています。
ベータラクタム系薬への感受性は良好です。
ある病院の話である。
仕事で患者のカルテを閲覧していると、死期の迫った患者(主には、末期ガン患者や、病院に長期入院し衰弱している患者などである)について、
医師が、患者が実際に亡くなる前に死亡届と死亡診断書を準備しているのを、よく見かける。
患者の氏名や死亡理由となる病気などをあらかじめ書いておき、実際に亡くなったときには、死亡日時を記載するだけ、といったような状態にしておくのである。
医師にとっては時間の節約のつもりかもしれない。
合理的であると思う。
しかし、「患者本人やその家族が、その事実を知った場合、気分を害するのではないか? そんな行為は、やめた方がいいのではないか?」とも考える。
難しい問題である。
この準備行為は、ほかの病院でも広く行われている行為であると予想される。
みなさんは、どう思うだろうか。
駄文です。
何年も前のことでしょうか。
TVで、発展途上国の子どもために募金活動している人の特集番組が流れていました。
そのときに、こんなことを言って批判する人か紹介されていました。
日本にも貧困に困っている子どもは多数いるわけで、 なぜそれに目を向けずに海外なのか?と。
募金をつのる暇があったら、アルバイトして自分で募金しろと。
結局は偽善なんじゃないかと。
募金をつのる側にとっては、うまく言い返すのか難しそうな意見です。
しかし、やらないより、やるほうが遥かに道徳的です。
たとえ偽善であっても、そこには何かしらの意味があるでしょう。
ただ、個人的には、日本人を優先して欲しいという部分には、すこし共感したのです。
日本人を優先〜と思ってしまった自分には多少なりとも同族意識というものがあるのだと思いました。
しかし、人は人です。
困っているという事実に、国籍も人種も関係ありません。
人は生まれる場所を選べないのだから、たまたま生まれた場所が悪かった人が、不幸なままでいるのは可哀想だという考え方です。
なぜ、自分の「同族」の範囲は、「人」ではなく、「日本人」なのでしょう。
自分が後者なのは、生得的なものなのでしょうか。
それとも、単一人種国家(島国)で育ったことなどによる後天的なものなのでしょうか。
うーん。
ちなみに、こんな言葉を思い出しました。
聖書の「汝の隣人を愛せよ」という言葉です。
自分を愛するのと同じように、隣人も愛すべきだ、という教えですね。
ここでいう隣人とは、いったいどこまでを言うのでしょうか。
考えてもよくわかりませんね。
視点を変えてみましょう。
自分が発展途上国の子どもだとして、援助してもらいたいのは、自国の大人か、先進国の大人か。。。
考えてみたら、結論は「どちらでもいい」になりました。
援助される側にとっては、援助する人がどこの誰であるかは問題にはならないのですね。