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珈琲は健康に良いのか?という疑問への回答

1日に3杯くらいコーヒーを飲んでいる私ですが、コーヒーに関しては、昔から、健康に関することが言われています。

べつに健康にいいと思って飲んでいるわけではないのですが、これを読んでいる人の中には、その真実が気になる人もいらっしゃるかもしれません。

 

「コーヒーに飲んだ人は大腸癌にかかりにくい」とかは有名ですが。

結論からいうと、「はっきりしない」だと思われます。

世の中の主な研究は、あくまでも、時間をさかのぼった研究なのですね。

コーヒー以外の要因がどうなっているか、そこが重要なのです。

たとえば、コーヒーをたくさん飲む人は、お酒を好んで飲む人が少ないとか、あまり脂っぽい肉を好まないとか、よく運動するとか、喫食習慣や生活習慣が、その他の人と、ちょっと違う傾向にある可能性があります。

そういう隠れた要素が多分にあるのです。

いわゆる交絡因子というやつです。

ところで、昔、こんな研究があったようです。

 

実験は、双子の1人は1日ポット3杯のコーヒーを、もう片方は1日ポット3杯の紅茶を死ぬまで飲み続けるというものでした。

結果は、双子のうち先に死んだのは毎日紅茶を飲んでいた方だったとのことで。

 

このような実験を、世界中の双子で実験すれば、真実に近い答えが得られるでしょう。

 

しかし、そんな実験は不可能ですね。

 

・・・まあ細かいことは気にせず、おいしくコーヒーをいただきたいですね☕️

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SNSとインターネット離れと言葉狩り

こんばんは。

 

人々のインターネット空間の捉え方は、年月と共に、大きく変わってきていますね。

 

それは、人々のアクセスするとメインどころが、ホームページ→掲示板→ブログ→SNSなんていうように変遷したことと無関係ではないでしょう。

 

かつてインターネットに書き込まれることは、『便所の壁の落書きと同じだ』なんて言われていたことがありますね。

 

某掲示板で「⚫ね」といったところで、それは冗談であることが自明であったわけです。

ところが、いまでは、SNSで「⚫ね」と言えば殺害予告だと認定されてお縄になってしまう、余裕のない感じです。

言葉狩りにも近い状況でしょう。

たとえば、Twitterでは、ある人は、Twitterという空間を、便所の壁のように捉え、落書きスペースとして利用しています。他方、ある人は、まるで社会の一部であるかのように捉え、自分を律しつつ、他者に対しても自律を求めています。

前者と後者は共存が難しいのは言うまでもなく。

これに類する状況が招くのは閉塞感、そして引き起こされるのは、インターネット離れらしく。

おそらくは、ローカルさが消えてしまったということです。

この「ローカル」の消失は、なんとなく、現状を理解するための言葉として、しっくりきますね。

特定の趣向をもつ人たちにだけ拡散したいことがある場合、いまのメインのプラットフォームは、不向きなので、リアルに比重がうつるという状況。

人間には

ここでは何を言っても大丈夫だろう

という空間・相手が必要なんですね。

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愚かな恋愛をしている人が見るべき『愛がなんだ』

2019年の映画『愛がなんだ』。

愚かな恋愛をしたことのある人は多いかもですが、

その時は自分ではなかなか自覚できないものです

映画というコンテンツを通して、第三者目線で愚かな恋愛を見ることができる映画。

それが

『愛がなんだ』

です。

ダメな恋愛

愚かな恋愛

地獄みたいな恋愛

もうやめようよ。

みんな幸せな恋愛をしようよ・・・

そんな気持ちになります。

一番、悲惨なのはラストシーンです。

興味がわいたら、ぜひ見てほしい映画です。

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正義の反対は、もうひとつの正義 ー 彷徨うフェミニズム ー

こんな事件。

千葉県警 はネット上で発信していた交通安全の啓発動画に出てくる 女性キャラクター に対し、「表現が性的で公共機関が採用しているのは問題だ」といった意見が寄せられたなどとして動画を削除しました。
ただ、ネット上では表現の自由の観点から抗議する動きも出ています。

 

ガンダムが分かりやすいでしょうか。

正義の反対は、もうひとつの正義なのですね。

自分から見れば、相手は悪だけれども、それは、相手の視点に立つと、立場が入れ替わるだけの話というわけです。

両者とも、自分の思想を正義と確信しているというわけですね。

しかしながら、行き過ぎた正義だと感じる人も、当然いるわけで。

抗議への抗議、というカオス

「「松戸市ご当地VTuberの戸定梨香」を啓発動画に採用したことに対する抗議」について、抗議をしようという試みがあるようです。

 

ちなみに、もとの動画はこちら(消されなければ観られます)。

 

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結婚に証人が要るのは憲法違反の疑い。憲法24条と民法739条と。

結婚のときに、婚姻届には、二人以上の証人の記載が必要です。

法律の根拠は、民法739条です。

第739条

婚姻は、戸籍法 (昭和22年法律第224号)の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる。

前項の届出は、当事者双方及び成年の証人二人以上が署名した書面で、又はこれらの者から口頭で、しなければならない。

民法739条は憲法違反?

さて、この民法第739条については、憲法に違反している可能性があります。

結婚に関する憲法は、24条です。

参照してみましょう。

憲法 第二十四条

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

論理的に矛盾している

証人がいないと結婚できないというのは、民法の規定は、憲法の「両性の合意のみに基づいて成立」という部分と、矛盾します。
つまり、通常、証人は、結婚に納得した上で記載するのですから、実質的に、婚姻に他者の同意を要求していることから、憲法と民法は矛盾します。
そのうえ、憲法には、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」とあるのですから、証人の要求により個人の尊厳が蔑ろにされることは、重ねて憲法違反と言えると思われます。
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多様性という言葉の独り歩きと人権教育

近年はリアルでもネットでも「多様性」という言葉がよく登場しますね。

この言葉が使われるのは、生物・環境についての話の中だったり、人間についての話しの中だったりします。

主には後者(人間)の方でしょう。

いろいろな人がいるのを認め、互いに尊重し合おうという主張とともに、この「多様性」という言葉が登場しますね。

この多様性という言葉なのですが、最近は、使いすぎなんじゃないかと思っています。

曖昧な感じの言葉なのに、たくさん使うのは、意味あるのかな?どうなんだろうな?と思うわけです。

 

結果として、独り歩きしている印象です。

 

多様性という言葉が出てきた背景は、社会活動家が関係しているかもしれませんが、中心にはおそらく、

特定のマイノリティへの差別をやめましょう

ということがあったと思います。

 

※もしも、特定のマイノリティへの差別が存在しない世の中であったなら、多様性という言葉がここまで登場するような変化は無かったでしょう

 

ここで思うのは、拡散周知すべきは、抽象度の高い「多様性」という言葉ではなくて、シンプルに、

マイノリティへの差別をやめましょう

というメッセージだと思うんですよね。

端的で分かりやすく、訴求力があります。

 

まぁ、差別という言葉を持ち出すと、暗い感じになってしまうということはありますが。

 

つまりは、多様性という言葉を使うことで、人々の意識が個別の差別問題にフォーカスされないことが危惧されるということですね。

人権教育

ちなみに、ある日に、図書館に出かけたのですが、そこで人権に関する本を見かけて、読んでみて思ったことがありました。

それは、マイノリティが抑圧されている現状に鑑み『多様性が大事だ』というのは理解できるが、それによって多様性が増すとか、多様性が維持されるとかは考えがたいことと、

先に来るべきは人権の尊重(人権教育)であって、多様性ではないんじゃないだろうか?ということでした。

人権を尊重できれば、多様性は結果としてついてくる気がします。

多様性が大事、多様性が大事、と社会で言われているわけですが、メッセージの転換が必要だと思われたのですね。

人権のほうが、多様性よりも、上の次元にある気がするんですよね。

 

他者の人権を重んじない人が多様性を軽んじることはないでしょうけれども、多様性を重んじるだけの人は、他者の人権を軽んじることがありそうだなぁと思ったのです。

人権教育の絵本

ところで、上で述べた人権に関する本なのですが、図書館でかりた本で、とても良かった本でした。

それは『子どもの権利ってなあに?』というタイトルの本です。

子どもにも分かりやすいイラストとメッセージで、親子一緒に、子どもの人権について考えることができます。

 

絵本の中の最後の方の、

「いつになったら、世界のすべての子どもの権利がだいじにされるようになるのかな。あした?あさって?20年後?」

というフレーズには、考えさせられるものがあります。

 

なお、子どもの権利は、「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」に定められています。

この条約は、子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められています。

18歳未満の児童(子ども)を権利をもつ主体と位置づけ、おとなと同様ひとりの人間としての人権を認めるとともに、成長の過程で特別な保護や配慮が必要な子どもならではの権利も定めています。

前文と本文54条からなり、子どもの生存、発達、保護、参加という包括的な権利を実現・確保するために必要となる具体的な事項を規定しています。

1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効しました。

日本は1994年に批准しています。

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友情結婚のメリット・デメリットとは?

友情結婚とは?
友情結婚とは?

注目される友情結婚

近年、友情結婚が注目されています。

これまでは恋愛結婚が主流でしたが、新たに友情結婚を選ぶ人が増えています。

友情結婚では、恋愛関係にない男女2人が、結婚して生活します。

ほとんどは、同居を前提にします。

同じ家に住むことで、住居費用や食費など、生活コストを下げることができます。

ただし、「結婚している」という状態が欲しいだけという男女は、別居を選ぶこともあります。

計画的に子どもを作れる

友情結婚のメリットとして、一番の特徴は、計画的に子どもを作れることです。

定期的に男女間で肉体関係を持つ恋愛結婚とは違い、友情結婚では、ふつうは肉体関係を持ちませんから、『予定していない妊娠』はありません。

二人が話し合って納得した時期に、妊活します。

もちろん、作らない選択肢もあります。

苗字の問題は残されている

さまざまなメリットがある友情結婚ですが、苗字(姓)をどちらか一方の性に統一しなければならないのが課題として残されています。

恋愛結婚では、女性が、男性の姓に変更するのが一般的ですが、友情結婚では、男女が対等な関係であることが重要ですから、この点は、たとえ友情関係にある二人であっても、揉める原因となりえます。

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キリスト教の神は無慈悲であるという説

キリスト教では、こう言われています。

神は、罪人を救うため、キリストを身代わりとして、裁きました。

そして、神は、キリストを信じる人は罪が赦されて永遠の命を得ることを約束しました。

 

キリスト教では、死者は天国か地獄へ行くことになります。

※ちなみに仏教では、死者は、浄土(じょうど)へ行くか、あるいは、穢土(えど)に行くか、そのどちらかと言われています。

 

ここで、キリスト教の布教に訪れたフランシスコザビエルは、日本人に論破された、という噂話があり、これはこれで面白いと思います。

 

たとえば、ザビエルの訪日時、それまで仏教しか信じていなかった人たちは、ザビエルによれば、地獄へ行ったと述べられるが、そんな神は無慈悲で信仰に値しないと非難されるなどです。

 

恋愛に関する部分で布教に苦労したという話もあります。

 

キリスト教を、すこし違った視点で見られるようになりますね。

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死から隔絶された近代社会

連日、コロナの死亡者数が報じられています。

 

これほど、死を意識する現状は、特殊と言えるかもしれません。

 

ところで、コロナ禍によって、現代社会が『死』から隔絶された社会であるという認識が強まったように思います。

 

すなわち、現代では、人間-大半は高齢者-に訪れる『死』は、病院という社会から隔絶された場所で迎えられ、その現場や経過において、一般的な若者や中年世代の人々には、距離感の遠いものとなっています。

その背景には、高齢化と、地域の中でのつながりの希薄化と、医療の進歩、今と昔の死因の変化などがあるでしょう。

 

データ

1951年には、自宅での死亡は82.5%でしたが、2009年には、わずか12.4%に激減しています。

代わりに病院での死亡が9.1%→78.4%と激増しました。

厚労省ウェブサイトより引用

表 死亡の場所別にみた死亡数・構成割合の年次推移

年次 総数 病院 診療所 介護老人
保健施設
助産所 老人
ホーム
自宅 その他
死亡数
1951 昭和26年 838 998 75 944 21 511 261 691 901 49 381
55 30 693 523 85 086 21 646 402 533 098 53 291
60 35 706 599 128 306 25 941 791 499 406 52 155
65 40 700 438 172 091 27 477 774 455 081 45 015
70 45 712 962 234 915 31 949 428 403 870 41 800
75 50 702 275 293 352 34 556 193 334 980 39 194
80 55 722 801 376 838 35 102 30 274 966 35 865
85 60 752 283 473 691 32 353 10 212 763 33 466
90 平成 2 年 820 305 587 438 27 968 351 2 177 657 26 889
95 922 139 682 943 27 555 2 080 2  14 256 168 756 26 547
2000 12 961 653 751 581 27 087 4 818 2 17 807 133 534 26 824
05 17 1 083 796  864 338  28 581  7 346 3  23 278  132 702  27 548
07 19 1 108 334  879 692  28 505  9 232 1  28 247  136 437  26 220
08 20 1 142 407  897 814  28 946  10 921  33 128  144 771  26 827
09 21 1 141 865  895 356  27 802  12 600 2  36 814  141 955  27 336
構成割合(%)
1951 昭和26年 100.0 9.1 2.6 0.0 82.5 5.9
55 30 100.0 12.3 3.1 0.1 76.9 7.7
60 35 100.0 18.2 3.7 0.1 70.7 7.4
65 40 100.0 24.6 3.9 0.1 65.0 6.4
70 45 100.0 32.9 4.5 0.1 56.6 5.9
75 50 100.0 41.8 4.9 0.0 47.7 5.6
80 55 100.0 52.1 4.9 0.0 38.0 5.0
85 60 100.0 63.0 4.3 0.0 28.3 4.4
90 平成 2 年 100.0 71.6 3.4 0.0 0.0 21.7 3.3
95 100.0 74.1 3.0 0.2 0.0 1.5 18.3 2.9
2000 12 100.0 78.2 2.8 0.5 0.0 1.9 13.9 2.8
05 17 100.0 79.8 2.6 0.7 0.0 2.1 12.2 2.5
07 19 100.0 79.4 2.6 0.8 0.0 2.5 12.3 2.4
08 20 100.0 78.6 2.5 1.0 2.9 12.7 2.3
09 21 100.0 78.4 2.4 1.1 0.0 3.2 12.4 2.4

 

注: 平成2年までは老人ホームでの死亡は自宅又はその他に含まれている。

 

おそらくは、昔は口から食事を取れなくなったら死に向かうだけだったのが、現代では、胃ろうや栄養チューブ、点滴など、延命する手段が発達したことが主要因かと思われます。

 

昔だと、 「近所のおじいさんが肺炎をこじらせてもうすぐ死にそうだ」となれば、その情報は地域に伝わり、人々は『死』というものを身近に感じたことでしょう。

それが、現代になり、これから死にそうな人や死にゆく人を目の当たりにする機会がほとんどなくなりました。

現代では、若者が死を意識する状況があるとすれば、祖父母の死くらいでしょうか。

ほかにも、自宅での葬式も減りましたね。

多くは、葬儀場で行われています。

これも、死との距離が遠くなっている一因かもしれません。

 

では、もっと『死』が身近に感じられる世の中になれば良いか?というと、そんな感じもしないわけで。。。

 

しかし『死』が、ほぼ完全に社会から隔絶されている現代も、いかがなものかと思ってしまいます。

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人種差別発言と正義

人種差別的発言NOというのは、もともとは、政治家なんかに適用されていたルールです(たぶん)。

そこには、アメリカ国内の人種の多様性や、国際問題への懸念などがあったのでしょう。

 

これが、最近では、アーティストや音楽家などにまで一気に波及してきた感があります。

有名人が、ひとたび人種差別発言をすれば、袋叩きにあう。

たいていは、SNSの普及により、炎上ネタ(コンテンツ)として悪趣味な人たちに遊ばれているのが実際でしょうけれども、発言に気をつかう、なかなか大変な世の中になっています。

 

とくに、アメリカでは、有名人はクリーンな発言しかできなくなってきている、厳しい状況のようです。

最近では、有名人が、過去の発言をほじくり返されて叩かれるケースまで。

[ビリー・アイリッシュが、アジア系への差別用語を発する動画が拡散された事例]

人種差別発言はいけないのか?

ここで、人種差別発言はいけないのか? という点については、「思うのは勝手だが発言するのは決して許されない」という立場や「発言してもいいが責任を持て」という立場など、様々な立場があるでしょう。

わたしは、差別的発言を受け取る方が聞き流せばいいだけ、と思います。

『馬鹿な事を言っているだけ』と無視すればいい話なのです。

ただ、その考えが正しいのかと思案してみるに、それは、差別的発言をする人が少数に留まる現状をベースにしているのであって、

極端ですが、黒人を奴隷にしていた歴史や、ナチスによるユダヤ人大量虐殺の事例に思いを馳せると、人種差別的な思想が拡大しては困るし、それを防ぐような措置は必須であると考えたりしてしまうのです。

ちなみに

最近は、発言だけでなく、ジェスチャーまでも人種差別だと言って規制されるようです。

これは日本人には、知ろうとしないと知ることの難しい領域ですが、気をつけたいものですね。

注意)たとえば、OKサイン(オッケーサイン)は近年、白人至上主義のシンボルに使われるようになり、元の意味より人種差別の意味に解釈されることも増えている要注意サインになっているのだそうです。

トランプ前大統領の影響でしょうか。